So-net無料ブログ作成

日本に学んだ韓国近代医学の父、ほか [日韓関係]

日本に学んだ韓国近代医学の父、ほか


〈〈 本日の気になるニュース 〉〉


1、「中央日報」12月12日、「新刊紹介・子供のための1250°Cほか」
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=93729&servcode=400§code=440

 昨年、惜しくも亡くなった韓国の宮廷料理研究家・黄慧性(ファン・ヘソン)さんの生涯とその世界を紹介する、子供向けの小さな本が出版されたようです。しかし、少なくとも記事によれば、その内容は相変わらず主観性の強い「韓国風」に見えます。

 記事は「朝鮮王朝宮廷料理の味と趣を継承してきた料理研究家・黄慧性」について、「最後の厨房尚宮であるハン・ヒスン尚宮が料理を作る姿を見守りながら材料、調理法、料理に込められた話、朝鮮時代の歴史まで記録したが、その記録ノートが6・25時に紛失すると、最初からまた記録を始めた」と紹介しています。

 中味を読んでいないので、断定的には申し上げられませんが、記事には誤解を招きやすい表現が目につきます。黄先生の業績は、宮廷料理の継承の前に、韓国人自身が見向きもしなくなっていた韓国伝統の食文化に光を当て、独自に研究に打ち込んだことを、まず挙げなければなりません。

 朝鮮戦争で研究資料が失われてもなお、研究が続けられたのは、先生の使命感と情熱のほかに、日本統治時代に総督府が李王職という官制を設け、文化の記録維持に努めていたからではないでしょうか。

 少なくとも記事の記述は一面的です。

 「韓国には資料や事実に基づいて、実証的に考察する文化がない」と以前、私の取材に語ってくれたのは、韓国・朝鮮問題の第一人者として知られる佐藤勝巳さんですが、韓国ではアカデミズムもジャーナリズムも事実の探究ではなく、自己中心のあらまほしき幻影を追究し、被害者を装い、無根拠に他国を批判しがちです。

 たとえば、池錫永(チスクユン)という韓国の偉人がいます。小学校用歴史教科書はわざわざ一節を設け、外国人医師を訪ね歩き、種痘法を学び、韓国にはじめて導入、普及させた、その成功は西洋医学の社会的神道に貢献した、と賞賛するほどの人物です。

 しかし、韓国近代医学の父の生涯は教科書の記述とはまったく違い、波瀾万丈といっていいものでした。むろん韓国が伝染病とは無縁な衛生的な国だったというのではありません。むしろその逆であり、イザベラ・ビショップの『朝鮮紀行』は、ソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思っていた、と書いているほどです。

 昭和11年発行の『京城府史』には、古来、朝鮮では衛生上の施設は見るべきものがない。汚濁した河川を飲用水とし、トイレもない。医療品には草根木皮を用い、妖僧巫女の祈祷に託した。いったん猛烈な伝染病が襲うと、たちまち蔓延し、罹患者は数知れず、死屍累々となって街路に横たわった。とくに疱瘡は四季を通じて発生・流行し、ほとんど風土病の観をなしていた患者の遺体は「迷信」により、戸外にさらされた、と書かれています。

 東亜日報がまとめた「朝鮮近現代史年表」によると、最初に種痘を実施したのは、明治10年、釜山日本居留地の済生医院のようです。池錫永が種痘法を学んだのは、この年表によると、済生医院の院長・松前譲からでした。

 韓国の歴史教科書は「日本人医師から学んだ」とせずに、なぜかわざわざ「外国人医師から」と名前を伏していることがわかります。

 「京城府史」が「朝鮮の種痘に関して逸すべからざる人」と高く評価し、特段の扱いで略歴を載せている池錫永は、1855年、ソウルの貧しい両班の家に生まれました。

 種痘に関心を持つようになったのは、開化政策推進のために日本に渡る修信使の随行医官から日本の種痘書を入手したのがきっかけだったようです。79年には海軍省軍医や松前医師から種痘法を学び、忠州郡ではじめて種痘を実施します。

 80年には修信使・金弘集(のちの首相)とともに来日し、日本外務省の斡旋により日本国内で痘苗製造技術などを修得します。さらに帰国すると、日本公使館付海軍軍医から医学を修めました。

 しかしそこに降って湧いたのが壬午軍乱、反日暴動です。池錫永の種痘場は焼き討ちに遭い、池自身も「邪衛の輸入者」とレッテルを貼られ、政府に捕らえられます。開化政策の推進を求め、上疏したことから、格好の標的とされたのでしょうか。

 けれども池はくじけませんでした。83年、池は科挙「文科」に合格します。理系から文系に華麗な転身を遂げ、各地に種痘所を設け、技術を伝授しました。

 しかしまたもや苦難が襲います。ある資料によると、数年後、「親日」の汚名を着せられ、全羅道に配流のみとなったというのです。

 ある韓国文化の専門家によると、韓国の儒教社会では、日本とは異なり、他人の体に触れる医者という職業が卑しい、と考えられ、そのため近代医学が社会的に受け入れられなかったといいます。

 池錫永がその功績を認められ、正三位を賜ったのは94年。近代化を推し進める金弘集政府に抜擢され、要職を歴任し、99年にはソウルに官立医学校が設立されるに伴い、校長の地位にまで上り詰めました。

 池錫永も、そして黄先生もそうでしょうが、韓国の先人たちが優れているのは、日本および日本人に対する好悪の感情を超えて、客観的に評価する目を持ち、学ぶべきところあり、とすれば、素直に学ぶ姿勢を持っていたということではないでしょうか。「親日」派といえば排除の対象としか見ない現代の韓国人とは格段の差があります。


2、「室蘭民放ニュース」12月13日、「幕末、室蘭に隠れキリシタン。野中さんが調査」
http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2007/12/13/20071213m_04.html

 室蘭の郷土史家の研究によれば、幕末の安政3(1856)年8月、長崎の隠れキリシタン家族がフランス軍艦に乗って函館に逃れ、同乗していた日本人伝道師によって室蘭に連れてこられていたことが分かったというのです。

 ひょっとすると、これは日本のキリスト教史を書き換える重大な発見かも知れません。というのも、従来の研究では、キリスト教宣教の再開はもう少し後と考えられてきたからです。

 文久2(1862)年、フューレ、プチジャンというパリ外国宣教会の二人の神父が横浜に上陸しました。横浜天主堂が竣功し、二十六聖人が列聖したのもこの年です。

 列国に開港された長崎でフューレ神父は天主堂の建設をはじめました。元治元(1864)年に完成した天主堂は「日本二十六聖人」教会と呼ばれます。現存する日本最古の天主堂・大浦天主堂です。

 翌年3月、浦上の農民たち十数名が「フランス寺」の見物にやってきて、「サンタ・マリアの御像はどこ?」とプチジャン神父に聞きました。これが250年間、禁制下で潜伏していたキリシタンの復活でした。

 ところが、この記事によれば、これより少なくとも9年も前に、長崎の隠れキリシタンの存在がパリ外国宣教会に知られていたことになります。

 もしこれが事実だとすれば、なぜパリ外国宣教会は、そしてカトリックは、1865年の浦上の隠れキリシタン発見をもって「キリシタン復活」としてきたのでしょうか。もし隠れキリシタンを北海道に連れて行ったのがプチジャン神父だとしたら、虚偽の歴史を伝えてきたということになります。本当でしょうか。


3、「MNS産経ニュース」12月12日、「天皇誕生日祝賀会で、台湾外交部長が初祝辞」
http://sankei.jp.msn.com/world/china/071212/chn0712122314006-n1.htm

 記事によると、日本の在台湾代表機関、交流協会台北事務所が主催する天皇誕生日の祝賀会が12日、台北市内で行われ、台湾の外相がはじめて祝辞を述べました。

 昭和47(1972)年の日中共同声明で、「日本政府は中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認」「中華人民共和国政府は台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明。日本国政府はこの中華人民共和国政府の立場を十分理解」しました。

 これによって日台関係が断絶し、以来、台北には日本大使館はありません。代わって実務レベルで交流関係を維持する窓口の役割を担ってきたのが交流協会で、同年末、外務省と通産省によって認可・設立されました。

 正式な国家関係は断たれましたが、日台関係は当時よりはるかに密接になっています。台湾に進出している日系企業は約1500社を超え、在留邦人も1万5000人を上回ります。このため中止されてきた「祝賀会開催」を要望する声が在留邦人などから高まり、天皇誕生日の祝賀会がふたたび開催されたのが4年前の平成15年でした。

 このとき李登輝前総統をはじめ台湾の政財界関係者に招待状が出されましたが、反発し、開催中止を再三、求めた北京への配慮からか、陳水扁総統などは招待されませんでした。また、北京政府関係者は「祝賀会の開催は日本の国家的行為。開催しないで欲しい」と申し入れたと伝えられます。

 記事にあるように、こうして北京政府の反発する中、台湾の政財界人を招いて再開された祝賀会は、昨年までは台湾側の祝辞を対日交流機関、亜東関係協会代表が行っていました。

 「以前から民間人の会合の場合でさえ、壇上に並ぶ各国国旗に台湾の青天白日旗を認めると、中国の代表者はさっと席を立ってしまう」(NGO関係者)くらい、台湾問題に神経質な中国は、ときあたかも祝賀会再開の年、台湾が南太平洋の島国キリバスと国交を樹立すると、「なりふり構わぬ妨害工作」を展開しました。キリバスには中国の宇宙観測基地があり、大統領は華僑の血筋。けれども外向的にはアメリカ寄りとされる同国への猛烈な外交攻勢は、北京政府の強い苛立ちを示していました。

 となると、天皇誕生日祝賀会での台湾外相の祝辞に、北京政府はどう反応するのでしょうか。 


 以上、本日の気になるニュースでした。


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

日本が大好きな韓国人、ほか [日韓関係]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年12月5日水曜日)からの転載です


◇10月から週刊(火曜日発行)の「誤解だらけの天皇・皇室」メールマガジンがスタートしました。
今週発行の第8号のテーマは「知られざる『さば』の行事」──明治時代まで1000年以上続いた天皇の祈り」です。
http://www.melma.com/backnumber_170937/



〈〈 本日の気になるニュース 〉〉


1、「琉球新報」12月4日、「審議官『撤回考えず』。軍強制削除検定意見」
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-29477-storytopic-1.html

 記事によると、圧力団体と野党議員らが文科省の審議官に検定意見の撤回などを要求しました。学問的な議論ならいざ知らず、要するに政治介入です。

 9月の県民大会のときには県議会や遺族会、婦人連合会の陰に隠れていた圧力団体がだんだん表面に出てきていることも注目されます。

 「平和教育をすすめる」というネーミングはじつに意味深長です。集団自決を「軍の強制」と子供たちに教えることが平和につながるという発想なのでしょうか。


2、「花岡信昭メールマガジン」12月4日、「民主党はどうなってしまったのか」
http://www.melma.com/backnumber_142868_3922310/

 民主党の衆参議員46人が訪中し、両院の本会議が中止になりました。民主党側は「本来なら国会は閉会している時期だ。自民党の都合で会期が延びただけ」と説明しているようですが、要するに、この時期の大量訪中は決まっていた。国会が延びたが、キャンセルしなかった、できなかった、ということなのでしょう。

 ならば、「南京虐殺70年」に時を合わせた訪中の目的は何か。

 花岡さんは「中国に対して、反日姿勢を改め、ガス田の開発を中止し、南京などの反日記念館をすべて取り壊し、日本のODAへの心からなる深甚な謝意を国際的に表明し、慰安婦問題、南京事件などの認識をまともなものに改め・・・・といったことでも突きつけるというのなら、意味はある」といいますが、花岡さんのご指摘通り、むろんそれとは逆なのでしょう。

 中国・保守反動派の高笑いが聞こえてきそうです。

3、「中国新聞」12月3日、「首相訪中までの決着へ意欲。ガス田、胡主席が高村氏に」
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200712030402.html

 紛争を棚上げして共同開発する、という胡錦涛の提案はたいへん聞こえがいいのですが、どこのガス田を共同開発し、開発したガスはどこへ運ぶのでしょうか。

 おそらく中国は、日中中間線から大陸側は共同開発しようとはいわないでしょう。日中中間線と沖縄トラフまでの領域、つまり日本が権利を主張している領域について、共同で開発し、山分けしようという提案なのではないでしょうか。相互利益といいつつ、相互利益ではない、ということになります。

 何度も申し上げましたが、沖縄トラフのボウリング調査をすれば、政治決着などする必要はないのではありませんか。政治力決着などというのは本来、政治力に優れた政治家が口にすべきことでしょう。


4、「朝鮮日報」12月4日、「独島で初の大統領選不在者投票実施へ」
http://www.chosunonline.com/article/20071204000055

 竹島を紙幣や切手のデザインに使うほど、大胆というのか、慎みがない。それがお隣の国の国民性のようですが、今度は島に住む百人のために、ヘリポートに不在者投票所を設けるのだそうです。

 IT大国の韓国のことだから、ネット選挙でもやるのかと思いきや、倭わざわざ警備艇とヘリコプターで選挙管理委員会を竹島に送るのだそうです。そのために、これまた仰々しいイベントも行うんだとか。

 さて、これに対して、日本政府はどう対応するんでしょう。「相手の嫌がることはあえてしない」という対応なんでしょうか。

 そういえば、忘れもしない3年前、こともあろうに、ソウルの日本大使館は大使館のホームページと一部の刊行物に「日本海」と書くべきところを、「東海」とくり返し表記していたことが発覚しました。ホームページの翻訳を韓国の業者に任せっきりにし、十分にチェックしなかった初歩的ミスで、当然ながら、物笑いの種となったのでした。

 もっとも韓国とて、威勢のいい割には、お粗末ぶりは大して変わりません。同じ年の1月、「朝鮮日報」は「『独島は韓国領土』、1894年のフランス地図発見」とという記事を載せました。19世紀の地図に「ウルサン島(独島の前の呼び名)」と記されているから、竹島は韓国領だ、と主張したのでしたが、新聞に掲載されたその地図は「東海」ではなく、「日本海」と表記していました。


5、「四国新聞」12月4日、「韓国ソウルに讃岐うどん店初出店。JR四国子会社」
http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/economy/article.aspx?id=20071204000079

 ここ数年、ソウルでは讃岐うどん店が増えているようです。JR四国の子会社が出店するというのがちょっと面白いです。
seoul2.gif
 さほどに韓国人は日本が大好きです。韓国通の友人によると、「韓国人の日本好き」はいまに始まったことではないといいます。

 「お金持ちのあいだでは1960年代から、衣食住全般にわたって日本製品をそろえることがステータスだった。70年代には日本からのお土産にネスカフェやクリープを持っていくと喜ばれた。このあいだも映画のロケでアメをなめていたら、おばちゃんたちが群がってきた」

 それほど日本が好きだというのです。

 「韓国人は日本統治時代の遺物に触れることを意識的に避けてきた。言及すれば、日本文化を否定しつつ、愛用している矛盾が一気に吹き出すからだ。けれどもいつまでも拒否してばかりはいられない。88年のソウル五輪で自信も付いた。盧泰愚大統領時代には実質的に日本語が解禁され、キムヨンジャなど韓国人歌手が日本で大活躍するようにもなった。98年には日本大衆文化の解禁で、政府レベルでの本音と建て前の使い分けが終わった。数年前には日本のサムライ映画が解禁され、黒澤明の『影武者』の広告が市内バスのボディを覆った。サムライといえば軍国主義と同義だったから、隔世の感がある」

 友人によると、ちょうど教科書問題が沸騰しはじめていた5年前、ソウルのどこへ行っても、尾崎豊の「アイ・ラブ・ユー」が流れていたといいます。日本の大衆文化が解禁になり、韓国の人気歌手ポジションが韓国語で歌う尾崎のバラードは、韓国人の心をつかみ、ヒットチャートのトップを数週間にわたって独走したのでした。

 一昨年は「日韓国交正常化40年」。「友情年」と位置づけられ、多角的な文化交流が行われました。その有終の美を飾るのが宝塚歌劇団のソウル公演でした。

 このときも韓国メディアはじつに冷ややかなでした。竹島問題、靖国参拝問題などが重なり、一時は中止の声も聞かれたようですが、困難を乗り越えて、公演は大成功を収めます。

 ベルばらなどが上演され、華麗なステージは韓国市民を魅了し、感動を与えました。観客席から自然な手拍子がわき上がり、カーテンコールでは2700人の観客が総立ちになり、歓声と指笛がこだましたといいます。


6、「時事ドットコム」12月4日、「Xマス伝統劇の上演が激減。非キリスト教移民児童に配慮。英」
http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2007120400063

 クリスマスには学校でキリストの誕生劇を行うのが伝統だったイギリスで、移民など非キリスト教徒の子供たちに配慮し、行事の廃止などに踏み切る学校が増えているんだそうです。

 オリジナルの記事はこちらです。
http://www.telegraph.co.uk/news/main.jhtml?xml=/news/2007/12/02/nativity102.xml


7、「朝鮮日報」12月4日、「ロンドン最古の劇場、韓国語の説明文に北朝鮮国旗」
http://www.chosunonline.com/article/20071204000059

 イギリス人特有のジョークでしょうか。韓国が北朝鮮化している、ともう何年も前からいわれています。


8、「CNN.co.jp」12月4日、「ぬいぐるみ命名問題で恩赦の英教師」
http://www.cnn.co.jp/world/CNN200712040003.html

 大統領から恩赦を与えられ、イギリスに帰国したようです。自由の身となって、ホッとされたことでしょう。


9、「中央日報」12月4日、「記者たち、ろうそくの明かりで記事作成」
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=93436&servcode=200§code=200

 ソウル警察が記者クラブの部屋の明け渡しを言い渡したのに対して、記者たちがこれを拒否して籠城し、電気、電話、インターネットの接続が切られ、それでも片手に記事を書き続けているというのです。


10、「北京週報」12月4日、「女流作家・張純如の『南京大虐殺』日本語版、ようやく出版へ」
http://www.pekinshuho.com/ztjl/txt/2007-12/04/content_88556.htm

 アイリス・チャンの著書の日本語版が13日までに書店にならぶのだそうです。


 以上、本日の気になるニュースでした。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

駐日韓国大使が高麗神社を表敬 [日韓関係]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年6月14日木曜日)からの転載です

koma_jinja01.gif
 在日韓国人の組織・民団の新聞によると、駐日韓国大使・柳明恒氏が8日、夫人とともに埼玉・日高市の高麗(こま)神社を表敬しました。地元の在日関係者などが太極旗を振って出迎えるなか、神社に到着した大使夫妻は高麗文康宮司に境内を案内され、記念にツバキの苗木を植えたのだそうです。
http://mindan.org/shinbun/news_bk_view.php?page=1&subpage=2496&corner=2

 同社は、紀元前1世紀から7世紀半まで朝鮮半島北部に栄えた高句麗が滅亡したあと、日本列島に渡来した遺民たちによって建てられた神社といわれ、高麗王若光(じゃっこう)をまつっています。現宮司は若光の子孫で、60代目といわれます。

 神社がある日高市は以前は高麗郡と呼ばれていました。『続日本紀』には、霊亀2(716)年5月16日に駿河、甲斐、相模など7カ国の高麗人1799人を武蔵国に移住させ、はじめて高麗郡を置いた、と記述されています。

 神社の神饌は麦で、氏子たちは祭りのときに一軒あたり一升の精白した小麦を奉納すると聞きます。高句麗の建国神話は、建国の祖・朱蒙が神から小麦を与えられ、そのあと高句麗を建てたことになっています。
http://homepage.mac.com/saito_sy/religion/H1110NKkoma.html

 明治以降、多くの韓国・朝鮮人が参拝し、戦後は歴代の韓国大使がしばしば参拝しています。3年前には羅鍾一大使夫妻が参拝し、韓国の国花ムクゲを記念に植えました。

 境内には朝鮮最後の李王垠(ぎん)・同妃方子(まさこ)両殿下や歴代朝鮮総督が植えた杉の木も並んでいます。

 高麗郡が置かれてからまもなく1300年を迎えることから、神社ではいま続々と記念事業が展開されています。
http://www4.ocn.ne.jp/~fkoma/

 千年以上の時を経て、日本の聖地となり、日韓の架け橋的存在となっている同社には、年間数十万人が参拝するといわれます。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

文禄・慶長の役で祖国朝鮮を守った英雄の400年祭 [日韓関係]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年3月13日火曜日)からの転載です

li_sunsin.gif
 韓国・東亜日報によると、文禄・慶長の役に際して、祖国朝鮮を守った当時の領議政・西柳成龍(ユ・ソンリョン)の没後400年に当たる今年の5月、柳成龍と、柳成龍に登用されて軍事を指揮した忠武公・李舜臣(イ・スンシン)の合同追悼式が両家の子孫によって行われるそうです。
http://japan.donga.com/srv/service.php3?bicode=040000&biid=2007031380458

 追悼式には小西行長と加藤清正の子孫、明の将軍・李如松の子孫が参加する予定とも伝えられます。東亜日報によれば、追悼式は「和解の場」で、

「日本の子孫は謝罪を前提に招待する予定だ。侵略を謝罪し、三国の新しい未来のために和解の心を分かち合いたい」

 と柳成龍の子孫は述べているそうです。

 さて、記事には柳成龍の位牌が置かれた書院のことが出てきます。朝鮮には、歴代王朝の始祖などをまつる殿(八殿)、歴代王の遺骸を埋葬した陵(六陵)など国家的な祭祀を行う場がありました。

 それらが日本統治時代、どのような状況に置かれたのか。

「神社参拝が強要され、朝鮮伝統の祭祀は顧みられなかったか」

 といえば、事実はそうではなく、朝鮮総督府は八殿・六陵に対しては年2回、国費で儒教形式の祭祀を行いました。

 このほかに、名儒賢臣の遺霊をまつる公認された祠(17カ所)と書院(27カ所)があり、そのなかには。忠武公・李舜臣をまつる忠烈祠(慶尚南道)も含まれています(『施政二十五年史』朝鮮総督府、昭和10年など)。

 つまり、今日、韓国人が

「国を奪われた。謝罪せよ」

 と声高に主張するこの時代、日本にとっては仇敵である「朝鮮の英雄」の祠廟が公認され、祭祀が励行されていたのです。韓国の国定教科書的な歴史イメージとは明らかに温度差がありますが、それでも韓国人は、日本人が400年前の「侵略」を「謝罪」しなければ、「和解」はない、とやはり考えるのでしょうか。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

大統領閣下、何をしたいのですか [日韓関係]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年1月26日金曜日)からの転載です

yasukuni4.gif
 韓国の盧武鉉大統領はきのう、日本訪問について

「あれこれ条件をつける考えはない」

 といいつつ、

「首相の靖国参拝を控えるように願いたい」

 と記者会見で注文をつけました。条件はない、といいながら、条件をつけるのは矛盾ですが、振り返ってみると、盧武鉉大統領の歴史問題、靖国問題に関する就任以来の行動はそれ自体、一貫性に欠けています。

 盧武鉉大統領が初めて訪日したのは、大統領に就任した2003年の6月6日でした。この日は韓国では「顕忠日」。抗日独立運動と朝鮮戦争で民族と国家に一命を捧げた人々を国をあげて追悼する特別の日です。

 大統領は顕忠院に献花、焼香し、

「私たちはいつまでも過去の足かせにとらわれているわけにはいかない」

 と追悼の辞で述べました。そして、「過去」の呪縛を振り払うかのように、そのまま機上の人となり、来日した大統領は、宮中晩餐会で

「両国はもはや過去の陰から自由になって、真の和解と協力の新時代を開いていかなければなりません」

 と語りました。

 翌2004年暮れにふたたび来日した大統領は、鹿児島県指宿で開かれた小泉首相との首脳会談のあと、大統領は同県東市来町に薩摩焼14代宗家の沈寿官氏を訪ねました。文禄・慶長の役で島津勢の捕虜となり、日本に連れてこられた陶工の子孫です。大統領は異国の地で独自の発展を遂げた陶磁器の美しさに驚嘆し、

「我々の誇り」

 と賞嘆したと伝えられます。

 この町には陶工たちが建てた朝鮮建国の組・檀君をまつる神社があります。秋祭りには故国の礼服を着て、歌い、舞い踊ったという神社の境内にはかつて「A級戦犯」東郷茂徳元外相の父親が寄進した大灯籠がありました。東郷元首相の祖先もまた秀吉の朝鮮出兵で連れてこられた朝鮮陶工の子孫でした。東郷が初入閣したとき、神社では健康と奮闘を祈る祈願祭が行われ、境内は参列者であふれたといわれます。

 しかし、沈寿官氏の家の目と鼻の先にある神社も東郷元首相の生家も、大統領は訪ねることはありませんでした。

 そして2005年、大統領は対日強硬政策に転換しました。11月に釜山で開かれた日韓首脳会談で大統領は歴史問題を取り上げ、

「日本が『過去』に戻るのではないかという懸念がある」

 と語って首相参拝中止を求め、マスコミには

「(首相参拝は)韓国に対する挑戦だ」

 と非難したと伝えられました。

 大統領が靖国神社を「日本軍国主義のシンボル」と見て、毛嫌いするのは自由ですが、それなら抗日独立運動家をまつる顕忠院に対して日本人がいだく国民感情を大統領はどのようにお考えなのでしょうか。

 もとより日本が朝鮮と戦争した歴史の事実はありません。朝鮮人はもっとも協力的な戦友であったはずです。だからこそ靖国神社は朝鮮半島出身の戦没者を、分け隔てることなく丁重に慰霊してきたのではないでしょうか。
 
 小泉首相も安倍首相も抗日戦士をまつる顕忠院に表敬し、献花、焼香しています。いずれの国であれ、国に一命を捧げた戦没者に敬意を表することは、国際的な儀礼だからです。他方、韓国はどうでしょうか。

 釜山での首脳会談で、大統領は

「いくら(靖国参拝についての小泉)首相の考えを善意に解釈しようとしても、韓国民は絶対に受け入れることはできないだろう」

 と語ったといわれますが、日韓の和解が妨げられている真因はどこにあるのでしょうか。

 日韓関係はしばしば独仏関係と比較されますが、10年前、韓国対外経済政策研究院の柳荘煕所長は、自著でドイツのシュミット首相との次のような対話を紹介しています。柳所長が

「ドイツは戦争の原因が自分たちにあると認め、謝罪した。なぜ日本は謝罪しないのか」

 と問いかけると、シュミット首相はこう答えたのでした。

「和解の手をさしのべたのはフランスであり、そして私たちがそれに応えたのです」(“Real success, financial fall”)。

 さて、大統領閣下は何をなさりたいのですか。

nice!(0)  コメント(1) 
共通テーマ:ニュース

韓国国立墓地を表敬する安倍首相 [日韓関係]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」からの転載です


 安倍首相は明日から中国、韓国を訪問します。9日には夫人とともに韓国、ソウルの国立墓地「顕忠院」を表敬し、献花すると伝えられます。日本の首相としては、小泉前首相が平成13年10月、14年3月に表敬して以来の表敬となります。

 顕忠院は広さが43万坪、16万3000余の墓石が並ぶ庭園墓地です。

 その中央にそびえる高さ31メートルの顕忠塔の左右には23メートルの壁が翼を広げています。左側は朝鮮戦争など、右側は抗日独立戦争をシンボライズしたレリーフが刻まれています。顕忠院は「反共」と「抗日」という二つの大きな「民族の戦い」がテーマになっています。

 塔の内部には朝鮮戦争当時の戦死者10万4000人の位牌がならび、地下には無名戦士6200余柱の遺骨を納める納骨堂があります。塔の祭壇前の香炉は朝鮮戦争で戦死した将兵の認識票が材料に使われているといわれます。

 顕忠院の最大のイベントは6月6日の「顕忠の日」に行われます。国の休日となるこの日、首相直属の機関が主催する追悼式には政府関係者のほか、遺族や各国大使館関係者ら5000人が参列し、全国民とともに黙祷が捧げられます。韓国民は国是たる「反共」「抗日」を確認するのです。

 「反共」「抗日」のシンボルである顕忠院に、日本の首相はたびたび表敬してきましたが、北朝鮮は日本とは対照的にこれを敵視し、1970年6月には北朝鮮ゲリラが高性能爆弾で爆破するという事件も起きています。朴正煕大統領の暗殺が狙いだったともいわれています。

 その北朝鮮の関係者が昨年8月、顕忠院に表敬参拝し、黙祷を捧げました。「日帝」の支配からの独立を祝う「光復60周年」の記念祝典に参加した北朝鮮関係者の表敬を、韓国マスコミは「驚きの行動」と報道しましたが、北朝鮮の代表は「祖国光復のために命を捧げた人たちが祀られているから」と説明したものです。

 また、韓国のマスコミは、新たな問題が生まれた、とも指摘しました。北朝鮮の顕忠院訪問への答礼として、北朝鮮が金日成廟などへの表敬を要求した場合、韓国はどう対応するのか、それが課題だ、というのです。

 だとすると、日本の首相がしばしば顕忠院を表敬してきたのに対する韓国の答礼はどうなるのでしょうか。小泉前首相が最初に顕忠院に詣でたのは、靖国参拝のあと、中国、韓国から猛然たる反発がわき起こった直後のことでした。

 かつて金大中大統領は「戦犯が合祀されない国立墓地のようなものを日本が造るなら、参拝する用意がある」と語りましたが、日本の歴代首相は「抗日」のシンボルである顕忠院に何度も表敬し、韓国の戦没者に慰霊の誠を捧げているのです。そしてまた今回も繰り返されようとしています。

タグ:顕忠院
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

歴史の全体像が見えない韓国 [日韓関係]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」からの転載です


 韓国は明日3日から竹島周辺で海洋調査を実施すると伝えられています。日本政府はたびたび中止を要請しましたが、韓国政府は聞く耳を持たず、潘基文外相は「韓国の正当な権利であり、日本が中止を要求することはできない」と反論しています。

 そればかりか、盧武鉉大統領は「挑発」しているのは韓国ではなく日本である、という考えで、日本の「挑発」に対応する「戦力」を備えることが重要だと語っています。これに対して、逆に日本側は「韓国調査船の拿捕はしない」(石川裕巳海上保安庁長官)と、最初から腰が引けています。

 なぜ韓国はこうも強硬なのでしょうか。疑問を解くカギは潘外相の発言です。同外相は5月上旬、日本の塩崎恭久外務副大臣と会談した際、「日本は独島(竹島)問題の背景にある歴史的な根源を直視していない」と語っています。

 つまり韓国側の主張では、竹島問題は日本の「過去」、すなわち日本による植民地支配のシンボルとされています。しかしそのような見方は正しいのでしょうか。

 終生、日韓問題に強い関心を持ち続けた神道思想家の葦津珍彦(あしづ・うずひこ)は、日韓国交正常化の直後、20年ぶりにソウルを訪れ、「反日」に凝り固まっている韓国の若者たちと、長時間にわたる話し合いの場をもったことがありました。

 案の定、若者たちの歴史の知識は偏っていました。日朝が対立する近代史は知っているのですが、李朝内部での対立はよく知らない。「抗日」烈士の活躍は詳しく知っているのに、反日戦線内での思想的対決についての知識は乏しい。憎むべき日本人の存在については詳細な知識を持ちながら、好ましい日本人の存在は知らなかったのです。

 原因のひとつとして考えられるのは、ハングル教育です。若者たちは漢字だらけの戦前の文書が読めないのです。知識が不足するのは当然でした。

 たとえば、ハングルの創始者である世宗大王についての知識は豊富なのに、近代になってハングルが市民権を得るのに果たした福沢諭吉の役割を知るものはいません。朝鮮近代化の先覚者である金玉均の亡命・暗殺は、日本に見捨てられた、という理解がもっぱらで、終始、同情と援助を惜しまなかった福沢や頭山満の存在は知りませんでした。

 結局、日本は非道だ、という知識ばかりが肥大化し、内省がない。すでに独立を回復したというのに、精神はいつまで経っても植民地状態のままで、日本という物差しでしかものが見えないのです。

 葦津は韓国の若者たちにこう呼びかけたそうです。「諸君は外国権力の責任を追及するが、外国が非道だから国が亡びざるを得ない、というのではそもそも独立を保てない。むしろ諸君は朝鮮内部の亡国理由をするどく直視すべきではないか」

 盧武鉉大統領は先月25日、朝鮮戦争開戦56周年の演説で、秀吉の朝鮮出兵にさかのぼって「受難の民族史」を強調しました。悪いのは外国だ、という相も変わらぬ発想です。韓国初の「戦後世代」の大統領はもしかして、漢字で書かれた韓国の歴史を読めない、読んだことがない、だから歴史の全体像を知らない、ということなのではありませんか。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

日韓の情緒の近さを語り続けた佐藤邦夫 by 佐野良一(イベントプロデューサー) [日韓関係]

以下はインターネット新聞「お友達タイムズ」 2006年5月7日号(第4号)からの転載です

seoul2.gif
▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢
日韓の情緒の近さを語り続けた佐藤邦夫
by 佐野良一(イベントプロデューサー)
▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢▢


 映画プロデューサー・韓国文化研究家であった佐藤邦夫(1915~96年)の没後10年の本年、生前の佐藤の仕事に再照明を当て、功績を偲ぶ集い「追悼・佐藤邦夫先生を語る夕べ」が去る4月26日、高田馬場「プラザカフェ」で開かれた。

 佐藤の生涯は韓国の映画、歌謡曲、レヴューなどエンターティメント列の大衆文化を日本に紹介することでほぼ費やされた。しかし彼の生きた時代は、日韓文化コンテンツビジネス面から見れば、実りの少ない冬の時代であった。そのため佐藤の仕事は広がりを持たず、自分の人脈と資金で賄う自己完結で終わることも多かった。しかしそんな彼の周辺には少なからぬ同好の士が集り、次第に門人たちによる“佐藤組”と呼ばれるゼミが形成された。

 佐藤は1930年代に宝塚歌劇のレヴュー作家として芸能界に踏み出すが、その後、映画配給会社の東和商事(現東宝東和)に転身する。ここで「漢江」や「家なき天使」など幾つかの感銘深い朝鮮映画と出会い、それを契機に1941年に映画プロデューサーとして京城に赴くが、その後、彼が召集時まで係わった仕事はレヴュー(朝鮮楽劇団)の総務職であった。

 ここでいう楽劇とは、ミュージカルやバラエティを含むレヴュー風舞台である。それらの多くは宝塚や松竹(SKD〈松竹歌劇団〉、OSK〈大阪松竹歌劇〉)のシステムを真似ていた(ただし男性も加入)。戦前、上海がジャズの都であったことは知られているが、同時期の京城は楽劇の都であり、多くの劇団とスターが生まれた。楽劇育ちの芸能人たちの多くは戦後も韓国芸能界に君臨した。佐藤邦夫が晩年まで持っていた韓国芸能界との太いパイプの核はこのような戦前の映画、楽劇人脈であり、これは余人の追随を許さなかった。

 楽劇の面白さを、佐藤は門人たちに「民族衣装の踊り子が激しく長鼓〔チャンゴ〕(首から懸けて両手の撥で演奏する胴の長い太鼓)を打って踊っていると、そのリズムにドラムが被ってゆき徐々にスイングになるんだよ。そのうちにチョゴリシスターズという3人娘が出てきてジャズを歌うんだ」と語っていた。楽劇の仕事のさ中の1943年、佐藤は召集を受け、中国戦線に出征するが、楽劇団の仲間は舞台で「海征かば」を歌い、彼を送ったという。

 戦後復員した当初、佐藤は大阪で京マチ子や笠置シヅ子を擁するOSKの仕事をしていたようだが、1960年代には東京へ戻り、ビクター芸能社でフランク永井や、橋幸夫、三田明らビクターレコード所属歌手たちのプロデュースを担当した後、1970年代中盤にはフリーとなって韓国映画の日本紹介役に徹するようになる。

 戦前戦後を通して韓国文化が日本で社会現象になることは先ずなく、特に芸能界には長く“韓国モノは当たらない”というジンクスが蔓延っていた。反対に、楽劇にしても映画や歌謡曲にしても、この間の韓国の大衆文化の源はいち早く西洋風に近代化した日本にあり、戦前戦後を通じて韓国は日本型の近代社会が続いている。上記“韓流”は日本型大衆文化が見事に韓国化した成功例だと見ることができる。

 エンターティメントという最も情緒が作用する業界で仕事をしてきた佐藤邦夫は、日韓の情緒の近さを誰よりも熟知していた。そのため言わずもがなの“友好”、“交流”などの薄っぺらな言葉を使うことはなかった。近い情緒を根底としたビジネスライクで冷静な関係を標榜していた。しかし自分自身はそれが全くできない人ではあった。

 佐藤邦夫の語り続けた“日韓情緒の近さ”は、今、“韓流”が証明した。
タグ:日韓関係
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

韓流ブームのパイオニア『佐藤邦夫』 [日韓関係]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」からの転載です。


 きのう、都内で「追悼・佐藤邦夫先生を語る夕べ」が開かれ、佐藤さんを師と仰ぐ人たち約40人が集まり、10年前、81歳でこの世を去った故人を偲びました。

 佐藤邦夫(1915-96)という人を知る日本人はけっして多くはないでしょう。かくいう私も同様で、韓国文化を語らせたら、この人の右に出る人はない、という20年来の友人に誘われて、参加させてもらうことになりました。「語る夕べ」を中心的に企画した友人が「私のお師匠さん」と呼ぶのが、佐藤さんです。

「韓流」ブームといわれて、もう何年にもなりますが、佐藤さんはいわば「韓流」ブームのパイオニアでした。昨春、「ニッポン人脈期 『韓流』の源流4」で佐藤さんを取り上げた朝日新聞は「戦前から音楽や映画のプロデューサーとして、日韓を近づける地下水脈の役割を果たした、知られざるキーパーソン」と伝えています。

 佐藤さんは幼いころから映画とレビューに深い関心を持ち、1930年代に宝塚歌劇の脚本家としてデビューしました。当時はまだ二十歳前の学生でした。その後、ある朝鮮映画に深い感銘を受け、映画仲間の誘いを受けて朝鮮にわたり、1940年代は朝鮮映画、レビューの世界で活躍します。

 敗戦後、日本に引き揚げたのちは、興業・映画のプロデューサーとしてその地位を確立しますが、その本領は韓国の文化・芸能を日本に紹介することに発揮されました。

 パティ・キム、吉屋潤らによる韓国歌謡名曲集を制作して大ヒットさせ、一方で、フランク永井の韓国公演も実現させました。映画監督の林権澤や俳優の安聖基などを日本に紹介したのも佐藤さんでした。西武デパートの「スタジオ200」や岩波ホールで韓国映画が頻繁に上映されるようになったのは、佐藤さんのカゲの力があったからです。

 佐藤さんを起点とする戦前からの日韓の幅広い人脈は、戦後の国交のない時代も、正常化後の韓国蔑視が続いていた時代も、脈々と続いてきました。佐藤さんの人脈を抜きにして、今日の韓流ブームは考えられません。

 竹島の領有権をめぐる日韓のせめぎ合いを見るにつけ、何ものにも動じない太い人脈を政治の世界にもほしいと願うのは私だけでしょうか。

「併合時代を朝鮮で過ごした日本人たちが口にしたがる浅薄な贖罪の言葉を、先生から聞いたことがない。先生は『楽劇だって歌謡曲だって無理に押しつけたんじゃない。受けるんだから仕方がない。面白いものが勝つんだよ』とよくおっしゃっていた」

 と、友人は語るのです。国家間の真の友好は、国民レベルの格好つけではない、深い友情に育まれるのではないかと思います。

「いつもたくさんの美女に囲まれていた」といわれる佐藤さんですが、きのうもやはり参加者の大半は女性でした。佐藤さんの遺影の前で、佐藤さんが発掘した在日三世のジュリー・パクさんが「サランヘ」を、かつての「日韓親善歌手」梨花(野元波津子)さんが「黄色いシャツ」を久しぶりに歌い、盛んな拍手を浴びていました。

 予告。友人が近々、「佐藤先生の思い出」を「お友達タイムズ」に書いてくれる予定です。

タグ:日韓関係
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

盧武鉉大統領談話、何のための強硬姿勢か [日韓関係]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」からの転載です。


 今朝の朝日新聞に載った韓国前大統領のインタビューについてブログを書き上げたところへ、今度は現大統領の談話のニュースが飛び込んできました。きのうから予告されていたことですが、内容はじつに強烈でした。
chousen_jingu05.gif
 たとえば日本経済新聞は、竹島の領有権問題で「けっして妥協できない」と主張し、「日本が誤りを正すまで国家的な力量と外交的な資源をすべて動員する」と強調した、と伝えています。まるで宣戦布告です。

 実際の談話の全文(日本語)は、韓国・聯合ニュースのネット版に載っています。
 http://japanese.yna.co.kr/service/article_view.asp?NEws_id=200604250942491

 これによると、談話は「独島(竹島)はわれわれの領土です」で始まり、日本の近代史をきびしく批判し、「いま日本が独島に対する権利を主張するのは、帝国主義侵略戦争による占領地の権利、ひいては過去の植民地領土権を主張するものです」「犯罪の歴史に対する正当性を主張する行為です」と決めつけています。

 さらに「いま政府は独島問題に対する対応方針を全面再検討します」「物理的挑発には強力かつ断固として対応します」「どれだけ費用と犠牲が伴っても、けっしてあきらめたり妥協できる問題ではない」と述べ、日本に対しては、「これ以上、新たな謝罪を要求しません。すでに行った謝罪にあった行動を要求するだけです」「歴史の真実と人類社会の両親の前に、正直で謙虚になることを望むものです」と呼びかけています。

 読んでいてため息が出ますが、どうしてこんなに強硬なのでしょう。そんなに強硬姿勢を貫きたいなら、なぜ韓国は先日の次官級会談で妥協の道を選んだのでしょうか。矛盾しています。

 日本政府内には「竹島問題での日本への対応について、国内で批判がある。弱腰を見せられないため」という見方もあるようですが、そういうことなのでしょうか。

 今回の海洋調査をめぐる日韓外交について、Brain News Networkが鋭い分析をしているのでご紹介します。
 http://www.bnn-s.com/bnn/bnnMain?news_genre=17&news_cd=H20021023183

 これによると、韓国政府が「拿捕も辞さない」という強硬発言をしたのが運の尽きだったと指摘されています。丸腰の日本の調査船に対して、韓国は武装した韓国警備艇18隻を配備しました。もし日本が調査を強行し、韓国が拿捕すれば、韓国民は溜飲を下げ、大統領の支持率は確実に上昇します。しかし国際的立場は逆に失墜するでしょう。国民受けをねらったリップサービスをしたばかりに、外交交渉では防戦にまわらざるを得なかったというのです。

 とすれば、今日の大統領談話は、大言壮語の失敗に懲りずに、失敗を糊塗するために、さらなる大言壮語を重ねたということでしょうか。

 そういえば、5年前、歴史教科書問題をきっかけに日韓が抜き差しならない状況になったときも、やはり当時の金大中大統領が完全なレイムダック状態にあり、政策に行き詰まった焦りが、当初は対日関係重視の「新外交」を推進していた大統領を「反日」に豹変させたといわれます。

 しかしこのとき意外に冷静だったのは韓国の民衆で、ソウルの街ではどこへ行っても、人気歌手のポジションが韓国語でうたう尾崎豊の「アイ・ラブ・ユー」が流れ、そのCDはヒットチャートのトップを走り続けていたのです。日本が大好きな韓国の民衆は、政治家やマスコミの「反日」大合唱をけっこう醒めた目で眺めています。

タグ:日韓関係
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース