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君が代裁判「藤田反対意見」の論理 [君が代・日の丸]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年3月2日金曜日)からの転載です


 公立校の入学式で国歌斉唱のピアノ伴奏を命じた校長の職務命令は、思想・良心の自由を保障する憲法に反しない──。先月27日、最高裁は初めての憲法判断を示しました。職務命令に応じなかったために受けた戒告処分の取り消しを求めていた音楽教諭の上告は棄却されました。
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=02&hanreiNo=34185&hanreiKbn=01

 最高裁第三小法廷の判決は5人の裁判官のうち4人の裁判官による多数意見で、藤田裁判官は

「多数意見に対して疑問を抱く。にわかに賛成できない」

 と反対意見を述べています。

 藤田裁判官は、反対の理由として、第一にこう述べています。

 ──多数意見では、裁判で問題にされている教師の「思想・良心」というのは、君が代に関する教師の歴史観・世界観、信念ととらえている。そのうえで、ピアノ伴奏は教師の歴史観・世界観と不可分なものではないので、校長の職務命令が教師の歴史観・世界観を否定するものではない、特定の思想を強要し、特定の思想の告白を強要するものでもない、と判断している。
 しかし、この裁判が問いかけているのは、校長の職務命令が教師に君が代に対する否定的評価を禁じたり、あるいは一定の歴史観・世界観に関する告白を強要することになるかどうか、ではない。むしろ、信条に照らして苦痛であるにもかかわらず強制するのは許されるのかどうか、という点にこそある。
 だとすれぱ、問題にされるべき「思想・良心」とは、君が代に関する否定的な歴史観・世界観に加えて、入学式に公機関から意思に反する行動を強制されることに関する否定的評価も含まれうるし、これこそが本裁判で問われていることである。
 つまり、君が代については、実際に国民の間で賛否両論があり、大きく割れている、したがってそのような君が代を公的儀式で斉唱することを強制することについて反対する意見もある。これは君が代に関する歴史観・世界観とはべつの次元の信念・信条であり、自由主義・個人主義の立場から評価しうるが、これに対して公的儀式で斉唱への協力を強制するのは、明らかに信念・信条そのものに対する直接的抑圧になる。
 したがって、さらに慎重な検討が加えられるべきである。原審に差し戻す必要がある。

 藤田裁判官は以上のように反対意見を述べています。大学教授出身の裁判官らしく、なるほど論理は通っています。しかし、裁判の過程で、この教師がこのような主張と論理を展開し、審理が行われたのかどうかは判決文からは見えてきません。

 裁判の発端は、公立校における公的儀式で、法が定める国歌の斉唱に関する職務命令です。法によって国歌と定められてはいるが、国民の間で意見が分かれている君が代を学校の公的儀式で強制することを否定的に考え、公務員の職務命令より優先させる「思想・良心」が、概念として、憲法に保障された本来の「思想・良心」というべきものなのかどうか、にも疑問があります。

 結局のところ、なぜ国民のなかで、君が代に対する評価が大きく分かれているのか、なのでしょう。もっといえば、天皇の歴史に対する歴史的評価です。国民のなかで天皇に関する意見の対立がなければ、このような裁判も起こりえません。

 判決文によれば、この教諭は、君が代が過去の日本のアジア侵略と結びついており、これを公然と歌ったり、伴奏することはできない、と主張したようです。日本の暗い過去と結びつけて、君が代、そして天皇に反対する人はこの教諭だけではありません。

 国旗・国歌反対イデオローグだった山住・東京都立大学総長(教育学)はこう述べています。

「日の丸・君が代問題は歴史的にとらえ直す必要があり、それを抜きにして容易な判断はできないことを、しっかり考えていかなければいけない」(衆院内閣委員会での公述)、「日の丸、君が代問題はどうしても天皇と天皇制をどう考えるべきか、というところに行き着く」(『日の丸・君が代問題とは何か』)。

 山住氏は敵愾心をむき出しにして、天皇統治に矛先を向け、国旗・国歌反対を叫び続けました。しかし山住氏の歴史へのまなざしは、戦時下の暗部のみに集中しすぎているように思えてなりません。

 山住氏は、『天皇をどうみる』で、「紀元節」の歌を歌わされた昭和10年代の小学校時代を振り返り、

「人間も日本国民である限り、草木と同じく、天皇になびき伏す存在でなければならないとされていた」

 と批判していますが、天皇の歴史、君が代の歴史はそのようなものだけではないでしょう。

 神でも悪魔でもない人間が織りなす国の歴史は、善か悪かと割り切れるものではないし、国のシンボルは、悪の歴史とのみ結びついているのではありません。天皇の歴史がすべてよかったなどということはあり得ませんが、逆にすべて悪だということもありません。

 たとえば、日中戦争勃発のあと、上海戦線で日本軍の暴走が相次いでいたとき、当時随一の神道思想家である今泉定助や明治神宮の有馬良橘宮司らが明治天皇の御製

「いつくしみあまねかりせばものろしの野にふす虎もなつかざらめや」

 を多数揮毫し、戦線の将兵に贈ったことがありました。天皇の精神が日本軍の暴走にブレーキをかけたのです。

 マイナスばかりの歴史であったなら、世界に例がないほど天皇の歴史が続いているはずはありません。しかし君が代反対派がマイナスの歴史ばかりを取り上げ、法廷闘争を通じて、宣伝し、国民を洗脳しているという事実はありませんか。

 君が代には古今集以前からの、千年を優に超える豊かな歴史がありますが、反対派はそのような歴史には目を向けず、もっぱら曲に着目して、

「軍人をのぞくと一般の大人は君が代など知らなかった」(山住『学校と日の丸・君が代』)

 と断定しています。

「歴史的に考える」といいながら、歴史の一部しか見ようとしない。そして、国民を政治的に煽動する。君が代について、国民の意見が大きく割れているのは、その結果ではないのでしょうか。この教師の苦痛の原因もそこにあるでしょう。

 だとすれば、国民が割れているという現実を出発点として、「思想・良心」の自由を保障しようとする藤田裁判官の論理は、逆に「思想・良心」の自由を守ることになるのでしょうか。
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