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君が代斉唱は良心の自由を奪うのか [日の丸・君が代]

以下は旧「斎藤吉久のブログ」(平成19年2月22日木曜日)からの転載です


 新聞報道によると、卒業式や入学式で「君が代」斉唱を拒否するなどした都立校の教員らを処分した東京都教育委員会に対して、日弁連は、「思想・良心の自由や教育の自由を侵害し、憲法違反である」として、処分の取り消しを求める警告書を提出しました。

 記事によると、日弁連は、「日の丸と君が代は過去の軍国主義を想起させ、国民主権とは相いれないと考える人は少なからずいる。国旗国歌法制定時には『起立しない自由や斉唱しない自由もある。画一的にしようとするわけではない』との官房長官の国会答弁もある」ことを根拠に、「通達や職務命令は思想の強制で、児童や生徒が多様な見方、考え方に接する機会も奪い、違憲」だと、いつもながらの論理を展開しているようです。

 思想・言論は自由ですから、日の丸・君が代から軍国主義を想起することも、憲法の国民主権と相容れないと考えるのも自由です。法律家がそのような考えにこり固まるのも自由です。

 しかし、歴史の事実からすれば、君が代はもともと、古今集にも「詠み人知らず」として収められているほど古く、しかもひろく知れ渡っていた賀の歌です。君が代の「君」は天皇とはかぎらず、朝廷に用いれば聖寿万歳をことほぐ意味になり、民衆に用いれば年長者の長寿を祝う歌ともなりました。神事や仏事、宴席で盛んに歌われ、歌い継がれ、そして国歌の地位を自然に獲得したのでした。
http://homepage.mac.com/saito_sy/tennou/STH1704kimigayo.html

「軍国主義を想起させる」などというのは、こうした豊かな歴史に目をふさぐ、あまりにも一面的な見方であり、そのようなものの見方をさせているのは、君が代ではなくて、教員や日弁連自身です。君が代斉唱が思想の自由を侵しているのではなく、教員の内面を侵しているのは教員自身の内面です。

 卒業式や入学式で君が代を歌うことは社交上のマナーでしょう。ほかにも、国際親善の場では、しばしば相手国の人たちが手作りの国旗を振り、国歌を歌って歓迎してくれることがありますが、これらは国際的儀礼であり、思想を強制することではありません。内面を理由として歌わない自由を主張することは間違っています。

 子供たちにとっては卒業や入学は一生に一度しかありません。お世話になった先生が正装して参列されれば、子供たちは一度きりの晴れの日をあらためて実感し、感謝の気持ちも深まり、よい思い出とすることができるでしょう。その節目の佳節に、なぜ政治闘争、思想闘争を持ち込むのでしょうか。

 政治闘争だけではありません。晴れの日の認識がどうやら教師にないようです。というのも、最近は卒業式や入学式にジャージ姿で出席する教員がけっこういると聞くからです。日弁連風にいえば、何を着ようが自由だ、ということになるのでしょうか。

 日弁連の主張は、自由の保障ではなく、放縦を要求し、社会の秩序を破壊するものではないのでしょうか。ジャージ姿で卒業式に出席する教員は、子供たちに「多様な見方、考え方に接する機会」を教育的に与えているのではなく、社会が積み上げてきた秩序を乱し、祝いの日を台無しにし、日弁連風にいえば、子供たちの晴れの日を祝う権利を奪っています。学校が荒れ、教師の権威が失墜するのは当然であり、子供の教育権をほかならぬ教師が奪っていることになりませんか。

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