So-net無料ブログ作成
食と農 ブログトップ

「農業基本法」を作った男の不明──筆を折った東大名誉教授東畑精一 [食と農]

「農業基本法」を作った男の不明
──筆を折った東大名誉教授東畑精一
(「神社新報」平成10年9月14日)


 農業基本法──日本の農業が向かうべき新たな道筋を明らかにし、農業に関する政策目標を示すため、昭和36年に制定された。
jingu_shinden.gif
 農業の法律的基準を示した最初の立法で、根底には西欧的な経済合理性の精神が流れている。戦前までの農本主義的な農業に代わって、新しい近代的な、むしろ工業的ともいえる農業の確立が期待された。

 農基法は戦後の日本農業の指針であり続けたが、農業生産の選択的拡大、生産性の向上、総生産の増大、構造改善などの政策目標は立法から40年近くが過ぎたいまなお達成されていない。農基法農政はなぜ挫折したのか?

 新農政策定に尽力した東畑精一は東京大学名誉教授で、日本の農業経済学を確立した功績から文化勲章を受章したが、晩年は

「私の考えに誤りがあった」

 と不明を恥じ、筆を折った。いったい何がそうさせたのか。東畑は何が誤りだと考えたのだろうか?


▢ 当初から不幸な星を戴く
▢ 3つの課題は達成されず

 農業基本法が制定された昭和30年代、“曲がり角論”が語られるほど、日本の農業は大きな岐路に立たされていた。

 31年度「経済白書」は

「もはや『戦後』ではない」

 と書いた。工業は強気の経済成長路線を驀進(ばくしん)し始めていたけれども、農業は取り残されていた。

 農村から若者が急速に消え始め、後継者を引き留めるための“引き留めオートバイ”が流行した。嫁不足も深刻になった。30年の大豊作以後、反収は頭打ちで、米価は横ばいから下降局面になり、増産すれば所得が増えるという楽しみは薄れた(林信彰『コメは証言する』)。

 32年8月、農林省は「農林水産業の現状と問題点」という副題のついた初めての『白書』をとりまとめる。『白書』は、

①農業所得の低さ、
②食糧供給力の低さ、
③国際競争力の低さ、
④兼業化の進行、
⑤農業就業構造の劣弱化

 ──という当面する「日本農業の5つの赤信号」を率直に指摘したうえで、「日本農業の基本問題」として生産性の低さをあげて訴えた。

「いまや、日本農業の基本問題を直視すべきときである。今後の農業発展、農民の経済的地位の向上は、農業の生産性の向上を基礎としないかぎり、将来に明るい展望はない」

「明るい展望」を求めて、34年5月、総理府の付属機関として農林漁業基本問題調査会が発足、農業基本法の本格的な検討が始まった。調査会の会長に就任したのが、東大を退職したばかりの東畑であった。

 35年5月、基本問題調査会は「農業の基本問題と基本対策」を岸首相に答申、これをもとに翌年6月に農基法が制定されるのだが、「農業基本法は成立の当初から不幸な星を頂いていた」(古野雅美「農業基本法を超える農政展開を」=「日本農業の動き96」)。

 岸退陣で池田内閣に代わっていたが、「前年の『60年安保』をめぐる政治的対決の余韻が続き、何事も与党対野党という対決ムードのなかでぶつかり合う」状況下で、国会はイデオロギー論争に終始し、実質審議はたったの10数時間、衆院農林水産委は「強行採決」、本会議は社会党が「審議拒否」、参院本会議は社党の引き延ばし戦術で徹夜の審議、こうして可決成立は午前4時をまわった。

 農基法の目的は、生産性、所得、生活水準について、農業と他産業との不均衡を是正するため、農業の近代化と合理化を推進することにあった。そのために、

①農業生産の「選択的拡大」(需要の高い農産物の生産を重点的に増やすこと)、
②「農業構造の改善」(零細経営からの脱却)、
③他産業との「格差是正」

 ──の3つの課題が提起された。

 それから30数年が過ぎ去ったいま、基本法農政はこれらの課題をほとんど達成していない。

 たとえば「選択的拡大」。

 農政ジャーナリストの会会長で、共同通信論説委員の古野氏によれば、畜産物や果樹、花卉など需要が増加する農産物はたしかに生産が飛躍的に増大した。しかし、米は違っていた。

 当時、米の供給過剰時代の到来を予測する見方が多かった。ところが、政府は逆に米の需要は微増ないしは横ばいに推移したのち、やがて減少すると見通して、農基法制定直後から米の増産運動を展開した。

 他方、農工間所得格差是正のかけ声のなかで、生産者米価は次々に引き上げられ、その結果、ますます米の過剰基調を促した。

 また、単品目の大規模栽培が進められた結果、各地で連作障害や知力の低下を招いた。畜産と耕種農業が分断され、畜産公害が顕在化した。性急な近代化、合理化は、機械の過剰投資、過剰な農薬投与・施肥、農産物の安全性、環境汚染など、諸問題を発生された。


▢ 「私の考えに誤りがあった
▢ 生活の視点が欠けていた」

 池田内閣の所得倍増計画では、当時25万戸しかなかった2・5ヘクタール以上の自立経営農家を10年間で100万戸育成するとしていた。農基法による農地改革以来の大改革で、他の産業に匹敵するような高所得の大規模農家が増えるはずだった。

 しかし、現実はそうはならず、挫折した(岸康彦『食と農の戦後史』)。

 なぜであろうか?

 農基法農政の立案者である東畑は53年春、日本経済新聞に連載した「私の履歴書」で、調査会当時を次のように回顧している。

 農基法の成立後、農政審議会が生まれ、東畑は初代会長となる。しかし

「審議会を続けること数年間、どうも事柄の進行が思うようにならない」のであった。

 調査会の答申では、高度成長が続くことを前提として、零細農家が第2次、第3次産業に流れることを期待していた。ところが離農は進まず、農家といっても農業収入より農業外収入の方が多い「第二種兼業農家」が増えた。出稼ぎで農業所得以上の収入を得ても、農民は土地を捨てなかった。

 若者は「金の卵」となって都会に流れ、農業就業者は激減したが、「3ちゃん農業」というように高齢者や女性が従来の農業を支えたのである。

 東畑によれば、「これを促進した最大の事情」は、「全国の地価の大暴騰であった」。

 高度成長に伴う地価の高騰が農民の土地保有欲をかき立て、規模拡大を妨げるとともに、兼業農家だけが増加した。こうして

「農業構造改善も経営規模の拡大もまったく吹っ飛んでしまった。基本法の基本観念が崩されてしまった」。

 東畑は調査会の速記録を読み直し、「驚くべきことを発見した」。

 調査会は地価問題をなんと一度も議論したことがなかった。問題にしてもいなかったのだ。

「議長としての私の問題提起力を疑わしめるものであるのに気づいた。他を責める要はない、自分の頭が問題なのだ。そう気づくと自己嫌悪、敗残兵のように背骨が抜けていくように思った」

 東畑は任期途中で審議会議長の職を辞し、それ以来、

「長らく農業問題を扱う気力も気概もなくして沈黙を守った」。

 39年の夏、滋賀県大津市で開かれた夏期大学で講演したとき、東畑は旧知の谷口知事から詰問された。

「いろいろ教わろうと思って出席したが、農業問題を審議せずに後進国問題ばかりを論ずるとはどういうことか?」

 東畑は

「恥ずかしながら、その資格がないのです」

 と答えざるを得なかった(『私の履歴書』)。

 しかし問題の核心は「地価」ではない。

『履歴書』執筆から3年後の56年5月、ある記念パーティーの席上で東畑はこう語ったという(石見尚『農協』)。

「経済の高度成長の過程で、農村の環境が大きく変わった。私は農業基本政策の相談にあずかってきたが、私の考えに誤りがあった。それは私の学問に生活の視点が欠けていたことである。これは学者としての私の不明の致すところで、今後、私は筆を折らなければならない」

 この前年、東畑は農業経済学を確立した功績で、文化勲章を受章した。伝達式のあとの記者会見で、

「賞をもらったのは小学校4年生以来のこと。いうところを知らず、ただ恐縮しています」

 と喜びを語った東畑であるが、胸中は晴れやかではなかっただろう。

 石見氏が指摘するように、東畑最晩年のスピーチは「じつに率直な学問上の自己批判であった」が、東畑は「生活」の観点として、「住生活をはじめとする生活環境への視野を持つことの大切さ」を例に挙げたものの、「それ以上具体的に言及することはなかった」。

 そして真意を語らぬまま、東畑は58年5月、84歳でこの世を去った。


▢ 深い人間洞察に欠けていた
▢ 一神教的な進歩史観の呪縛

 東畑はほんとうは何を言いたかったのだろうか。農基法の挫折の真因をどう考えていたのだろう?

 石見氏は農民の勤労観すなわち勤労哲学に着目し、こう説明する。

 日本の農基法が、1955(昭和30)年に立法化されたばかりの西ドイツ農業法を模範にしていることは知られている。農基法が「自立経営農家」と呼ぶ適正専業農家の勤労哲学は、西ドイツ農民のプロテスタント的職業観を暗黙のうちに持ち込んでいる。

 そこに問題があるという。

 宗教改革をおこしたマルチン・ルターは、人間の原罪は人が生涯、悔い改め続けることによって免償されると説いた。カルヴァンは禁欲による社会改革を説いた。こうした倫理観が社会の根底にあって、西ドイツでは土地の公的管理をも容易にした。

 しかし、日本の農民はキリスト教徒ではない。それでも日本の農民にプロテスタント的勤労哲学と勤労観があれば、西ドイツの農業法の精神が適用するかも知れないが、そうではない。

 日本農民の伝統的な労働観は、神道や仏教、儒教などが混じり合った「報恩観と自然観から合成されたもの」であり、キリスト教的免償論や天職論、あるいは「神の国」への奉仕という労働観は適用しない。

 日本の農民は農業を通して自然との一体感を求めている。したがって農業の営みを失うことは自然とのつながりが切断されることであり、アイデンティティの喪失にほかならならない。農地を手放すことはアイデンティティを与えてくれた祖先の恩恵に反することで、だからこそ農地の流動化に強く抵抗する。

 兼業農家から専業農家へ土地を移転させ、経営規模を拡大し、農業構造を改革する農基法の流動化政策の失敗はここに起因する、と石見氏は理解する。

 東畑は優れた経済学者ではあった。しかしその学問は、欧米キリスト教世界からの、いわば借り物であった。

 自然が相手の農業は、ビジネスではない。国土、風土の特性に合わせて、それぞれの民族が長い歴史をかけて築き上げてきた、生の営みそのものである。よくも悪しくも、日本の農業には日本人の自然観と祖先崇拝が染みついている。

 東畑はそれが見えなかった。合理では割り切れない日本の農民の生き方という「木」に、西欧的な合理主義的な経済学という「竹」を、接ぎ木しようと試み、案の定、失敗したということか?

 京大の渡部忠世先生は、近代合理主義で割り切る農政のあり方をこう批判している。

「稲作の収量や、その経済効率などという判断基準をもって優劣を論じることが、まさに理不尽な思い上がりであることが理解されるだろう」(『稲の大地』)

 農基法成立から30年目の平成2年、『農業白書』は、「国民経済の発展と食料・農業」と題する一章を設け、農基法農政30年を振り返り、指摘している。

「農業・農村をめぐる制度・施策のあり方について、中長期的展望に立って、積極的かつ総合的に見直しを行っていくことが重要である」

 ここ数年、農基法の本格的な見直しと新農基法制定が広範囲に議論されているが、失敗を繰り返さないためには、戦後の農政史をあらためて謙虚に見直していく必要がある。さもなければ、食と農の破壊がいま以上に進みかねない。
タグ:農業
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:ニュース

杓文字を作る人々の祖神「惟喬親王」──没落した渡来氏族の悲しい歴史 [食と農]

杓文字を作る人々の祖神「惟喬親王」
──没落した渡来氏族の悲しい歴史
(「神社新報」平成7年5月15日号)


 甲子園のアルプス・スタンドで広島県代表校の応援団がたたいて鳴らす杓文字(しゃもじ)の音は、高校野球に欠かせない風物詩だが、今春(平成7年春)の選抜野球では阪神大震災の余波で自粛された。

 杓文字は敵を“メシ取る”という縁起かつぎで、応援席に陣取る身の丈ほどもある大杓文字は、「安芸の宮島」で授与されたものである。

 厳島神社が参拝者に授与するようになったのは、江戸・寛政年間、「参拝の証として適当の土産品なかりしを嘆き、且つまた窮民に垂るる憐愍の心」(『厳島』)から、僧誓真が楽器の琵琶のかたちにヒントを得て創作したといわれる。

 100年後、日清戦争が始まると「これは敵をメシトルなり。征戦の首途にすこぶる吉兆」として、武運長久を祈る出征兵士やその家族が回廊の柱に打ち付けた。

 いま祈願絵馬よろしく、千畳閣(豊国神社)に山のようにうずたかく宮嶋杓文字が奉納されるまでになった経緯である。

 それにしても、なぜ日本人の信仰と杓文字が結びついたのであろうか。


▢ 不予にまします元正天皇に
▢ 強飯を奉った多賀大社伺官

「杓文字」は「柄杓(ひしゃく)」の女房言葉である。いまでは水をすくうのは柄杓、味噌汁をよそうのは杓子(しゃくし)、ご飯を盛るのは杓文字とほぼ使い分けているけれども、じつはみなまったく同じ道具だった。

「柄杓」の語は、瓢箪(ひょうたん)の異称「瓠(ひさご)」がなまったもので、古代人は乾燥させた瓢箪をタテ割りにして、水や汁や飯をすくったらしい。

 瓢箪はその独得な形から神霊の容器と考えられ、杓子はくりぬかれた中央のくぼみに神霊が宿るとして神聖視されたと民俗学では説明している。

 近世、爆発的に流行した伊勢群参のお蔭参りで、巡礼者が曲物柄杓を腰にさした背景にはこうした信仰がある。

 柄杓と神社との結びつきは、ほかにも例がある。

 滋賀県犬上郡の多賀大社には、有名な「お多賀杓子」がある。年間10万本が参拝者に授与されるそうだ。

 同社がまとめた『多賀神社史』は、

「元正天皇の養老年間中、天皇、不予(ご病気)にましまし、供御(くご)を聞こし召されなかったにより、本社に御祈願あり、伺官ら忌火をもって強飯を炊き、神山の#(木偏に夫)栘(しで)の木をもって杓子を作り、これに副えて奉ったところ、とみに御悩みの平癒を見た」

 とその由来を記している。

 話はさらに続き、杓子を作った木の枝を地面に差したところ、根が生じたのが、田園にいまも大きな枝を広げるケヤキの大木の「飯盛木(いもろぎ)」で、男木と女木があり、県の天然記念物に指定されている。

 元正天皇(第44代)は、史上8人10代おられる女性天皇のお一人で、霊亀元(715)年9月、母君・元明天皇(第43代)の譲位を受けて、36歳で即位された。

 2代続いた女性天皇であるが、元正女帝の父君は草壁皇子(天武天皇の皇子)であって、むろん、いわゆる女系継承ではない。

 何よりも激動の時代であった。

 元正天皇をテーマにした小説がある。

 作家・永井路子氏による『美貌の女帝』で、次第に勢力を拡大させて、ついに政治の実権を握る藤原氏との確執のなかで、長屋王(父君は天武天皇の皇子・高市皇子)との恋を断念し、女帝の運命を甘受して生きる「蘇我の娘」として同帝を描き上げている。

 元明天皇の母は蘇我氏の出であった。そして氏族間の政争に巻き込まれるのである。

 簡単に歴史を振り返ると、霊亀3年3月、左大臣・石上(いそのかみ)朝臣麻呂の死によって、右大臣・藤原不比等は文字通り政界の第一人者にのし上がった。

 不比等は、蘇我本宗家を滅ぼし、大化改新を達成させた立役者の1人、中臣鎌足の次男で、鎌足の後継者として着々と権力の階段を駆け上ってきた。

 しかし養老4(720)年8月に不比等が病を得て薨じると、皇親派は巻き返しを図り、翌5年1月には大納言・長屋王が右大臣に昇進して、政権を掌握する。

 元正天皇は甥の首(おびと)皇太子(聖武天皇、第45代)に譲位されたのちは、太上天皇として権限を発揮された。

 ところが、神亀6(729)年2月、頼みとする従弟の長屋王が自害し、室の吉備内親王(元正帝の妹君)が殉じて、一族は滅亡する。藤原氏による陰謀事件といわれる長屋王の変である。

 同年8月、年号は「天平」と改まり、不比等の女・安宿媛(あすかべひめ)が立后する。聖武天皇の皇后となるのである。

 それから20年後、元正上皇が69歳で崩御。かくして蘇我稲目以降、大和政権の中枢にあり、また皇室を凌ぐほどの権勢と栄華を誇った蘇我氏の命脈は完全に途絶え、藤原氏が取って代わることになる。

 話を多賀大社の社伝にもどす。

 養老年中に元正天皇が病を得たという記述は、少なくとも『続日本紀』のなかには見当たらない。

 また、不思議なことに、江戸中期に書写された『多賀大社儀軌』第一の「飯盛木之事」の項は、元正天皇の故事についてまったく言及していない。

 そのため故事は「諸国を勧進廻りした近世の坊人たちが延命・長寿の御神徳を弘布するために“養老”という年号にあやかった創作だ」と見る人もいる。

 しかしそう簡単に割り切れるものだろうか。

 というわけで、多賀大社が鎮まる近江、さらに奈良を取材することにした。

 近江といえば、畿内と並んで、古来、大陸との関係が深い土地柄であった。湖東地方には渡来人の集落が新たに築かれ、高度な大陸文化が栄えていたようだ。

 唐・新羅連合軍10万の前に滅亡した百済の王族や貴族が、大挙して亡命していたからである。

 多賀大社が鎮座する犬上郡の首長であった犬上君御田鍬(みたすき)は遣唐使、遣隋使として大陸にわたり、帰国のたびに百済や唐、新羅からの使者を連れ帰った。それだけ大陸との結びつきが強かったようだ。

 また、蘇我氏は百済系の渡来氏族だとする説が有力で、少なくとも有力渡来氏族と密接な関係を持ち、多くの渡来民を傘下に置いていたことは間違いない。

 ところで、元正帝の治世のころ、ご飯といえば蒸した強飯(こわめし)だったらしい。

 民俗学者の篠田統氏によると、一般に煮飯が主流になるのは釉薬がかかった陶鍋や陶釜が普及する平安中期以降だというのである。

 それ以前は精白技術が十分ではなかったから、ぽろぽろの強飯を食べていたらしい。とすれば、へらの杓文字ではご飯をうまくすくえなかっただろうと思われる。

 元正帝に強飯を奉った杓子がどのような形状だったかは情報がないので分からないが、多賀大社に伝わる「お多賀杓子」は、明治期まではお玉の部分がくぼんでいて、柄はオタマジャクシの尻尾のように曲がっていたようで、その珍しさから盛んに文学に取り上げられた。

 たとえば──。

手強さはお多賀杓子の荒削り ゆがみなりにも命長かれ


▢ 紀氏の末裔・惟喬親王を
▢ 祖神として祀る木地師たち

 杓文字はお椀やお盆などと同じく、木地師と呼ばれる漂泊の山民によって作られた。

 彼らは生産物を、里に定住する農耕民の穀物などと交換した。このため杓文字は山という異界からもたらされる呪具として、里人から神聖視されたと説明されている。

 琵琶湖に注ぐ愛知川を30キロほど遡った袋小路のような鈴鹿山脈の山中に、中世以来、木地師の根源地・発祥の地として広く知られた地域がある。

 君ヶ畑(きみがはた)、蛭谷(ひるたに)、箕川(みのがわ)、政所(まんどころ)、九居瀬(くいぜ)、黄和田(きわだ)の小椋谷(おぐらだに)六ケ畑である。

 木地師たちは「悲運の皇子」惟喬親王を祖神として崇めるという信仰を持っていた。いや、いまも持ち続けている。人々は「親王さま」と呼んで慕い続けている。皇室の物語は暮らしと直結しているのだ。

 中世以降、全国に分布する木地師集落には親王伝説が伝わり、彼らは自分たちを親王の末裔と信じてきたのである。

 惟喬親王は、というと、文徳天皇(第55代)の第一皇子であられた。

 蔵人・紀名虎(きのなとら)の女・静子を母として、承和11(844)年にお生まれになった。右大臣・藤原良房が政治をもっぱらにし、勢力を拡大したころである。

 承和9年7月、承和の変をきっかけに良房は覇権への道を歩み始める。

 仁明(にんみょう)天皇(第54代)の崩御に先立って、女・光明子(あきらけいこ)を入内させ、文徳天皇即位の直後に惟仁親王が生誕されると、今度は惟高、惟条(これえだ)、惟彦の3兄親王をさしおいて、生後9か月で立太子させた。のちの清和天皇(第56代)である。

 惟喬親王は皇位継承の機会を失い、他方、良房は太政大臣に任じられ、さらに摂政となり、藤原氏による摂関政治の基盤がつくられる。

 惟喬親王が「悲運の皇子」と呼ばれる所以である。

『三代実録』は、惟高親王が貞観14(872)年に出家され、洛北小野に幽居されたと記している。しかし同16年以降、親王の動静は正史からはうかがえず、入寂の日も明らかではない。

 ところが、木地師たちが信じている惟喬親王伝説によると、出家された親王は密かに愛知郡小椋谷の深山に入御され、小松畑を仮御所として幽棲されたことになっている。

 法華経を読誦する日々を送っていた親王が、ある日、法華経の巻物が転がる原理から、手引き轆轤(ろくろ)を考案され、侍臣に命じて村人に伝えさせた。

 こうして日本の木地業がおこり、小椋谷が木地師の根源地となったというのである。

 君ヶ畑には親王を祭神として祀る大皇器地租(おおきみきじそ)神社、蛭谷には筒井神社が鎮座し、かつては両社の神主が全国の木地師たちを支配した。

 両社だけではない。各集落ごとに親王を祀る、立派なお宮が鎮まり、小椋谷は親王一色に染め上げられている。

 小椋谷のある愛知郡(いまは神崎郡永源寺町から、さらに東近江市)といえば、愛東町には推古天皇の御代に聖徳太子の願いで創建されたという近江最古の名刹・百済寺(ひゃくさいじ)があり、湖東地域でとくに大陸文化の色濃い土地柄でもある。

 その愛知(依智)郡一帯を開拓したのは、やはり渡来民の依知秦氏だといわれる。鋭い刃物を使う轆轤の技術は高度な製鉄の技術が前提で、その技術は百済の技術民がもたらしたものらしい。


▢ 紀氏は「蘇我氏の支族」だった
▢ 紀氏神社のそばに眠る長屋王

 親王を生んだ紀氏は、紀伊国に本拠を置き、中央豪族として成長した。5、6世紀に大和朝廷が朝鮮半島に進出した際の活躍にはめざましいものがある。

 その一派は大和国の平群(へぐり)に移り住んだ。生駒郡平群町に氏神の平群坐紀氏(へぐりにますきのうじ)神社がいまもあり、高市郡には氏寺の紀寺(きのてら)があったといわれる。

 また、湖東地域は平安初期には紀氏の所領であり、江戸初期まで紀氏が根を下ろしていたらしい。

 紀氏と蘇我氏との共通点は少なくない。たとえば、武内宿禰(たけのうちのすくね)の臣(おみ)系豪族であることなどである。

 それどころではない。

 橿原市曽我町の宗我坐宗我都比古(そがのそがつひこ)神社の宮座に伝わる由緒によると、元正天皇の祖母に当たる持統天皇が、蘇我一門(本宗家)の滅亡を哀れんで、蘇我倉山田石川麻呂の次男・徳永内供に「蘇我氏の支族」である紀氏を継がしめ、内供の子・永末に祖神を奉斎するための土地を与え、社務と耕作をになわせた。

 それが同社創建の縁起だとされている。

 さらにもうひとつ。

 奈良・平群町の平群坐紀氏神社から1キロも離れていない、目と鼻の先に、長屋王とその妃・吉備内親王の墓所が仲良く並んでいる。

 蘇我氏と紀氏とのきわめて近い関係をうかがわせる。

 紀氏は蘇我氏ほどではないにしても、一時は外戚として栄えた。だが、応天門の変以後、その勢いは衰え、政治の表舞台から姿を消し、文学の世界に遊ぶようになる。

 それはちょうど藤原氏の台頭のカゲで、蘇我氏が滅んでいったのと似ている。

 元正天皇の杓文字伝説と惟喬親王伝説との不思議な符合には、没落した渡来民の悲しい歴史が隠されているように思えてならない。逆に、悲しい記憶が親王伝説を生んだのかも知れない。


▢ 危機に瀕する木地師の祭り
▢ 出でよ「平成の南方熊楠」


 記者が湖東に旅したのは、3月上旬、まだ日陰に雪が消え残り、明け方はしんしんと冷えた。

「筒井千軒、琵琶湖に影がさす」といわれるほど繁栄した小椋谷に、いま木地師の姿はない。

 明治政府によって山林改革が実施され、戸籍法が施行されて、「飛び」の生活は認められなくなり、全国に数万人いたという彼らの栄光の歴史は幕を閉じた。

 戦後は住宅ラッシュで良材が失われ、そのうえ外材の輸入で林業が振るわなくなり、六ケ畑は過疎の村に転落した。

「30年前は発電所に人がウジャウジャいたのに、過疎化は進むばかりです。子供は1割に減ったし、政所は半分以上が空き家ですよ」

 と嘆くのは、野神照嗣宮司さん。小椋谷のすべてのお宮の宮司を務めている。

 高齢化も悩みの種で、「祭りは簡素になる一方」だ。裏山での嶽詣り神事は、本来の「お池」ではなく、いまは山の麓で執り行われる。

 若衆入りの御供盛り神事は、かつて一人前の証であったが、いまは「若衆を持たん」。何よりも若者がいないのである。

 深刻なのは蛭谷である。

 もともと筒井峠にあった集落が人口減から、明治初年に現在地に移転した。それがいままた風前の灯火となっている。

 氏子はわずかに5軒だけ。「字(あざの)神主」「区長」「氏子代表」の3人が少なくとも祭りには必要だが、「男3人しかいないから、1年交替で回り持ち」の状態だ。

 大榊の神輿渡御は20年前からできなくなった。氏子総代の小椋正美さんは「あと5年くらいは大丈夫」と楽観するが、10年後、20年後のことは誰にも予想が付かない。

 すでに無人となった集落もある。

 君ヶ畑のさらに山奥の茨川はかつての鉱山で、轆轤に欠かせないノミはここの鉄鉱石で作られた。江戸期には約1000人の鉱夫で栄えたが、昭和45年に廃村になり、地図から消えた。

 いまは天照神社神社だけが寂しく鎮まっているという。10月の例祭に、もとの氏子たちが近県から、決まって帰ってくるのが唯一の慰めになっている。

 その昔、小椋谷と木地師支配本所の正統性を競い、いまも「こっちの方が古い」と対抗意識を燃やす多賀町大君ヶ畑(おじがはた)も事情は変わらない。

 惟高親王を祀る白山神社の宮守になると、年3回の「三季の講」には何があろうとも帰ってきて勤め上げるという村のしきたりに従う若者は「いなくなってしまった」。

「ワシら、親の言うたことを守ってきたが、これからアカンようになるやろ」と祭りの保存に熱心な橋本勇さんは寂しそうに語る。

 古儀を守れなくなっているのは、多賀大社とて、例外ではない。

 各字ごとに数人ずつ緒役を出すのが慣例であったが、「過疎でふだんは住民のいない字もある」。

 字がおカネを出し、学生アルバイトを雇って、祭りが存続されているのが現実だ、と中野幸彦権宮司は苦笑する。

「字神主」を30年前に務めた君ヶ畑の牧谷辨治さんは「字神主になると月に9度の朝詣りをする。緊張の連続で、薄明のなかで社殿の御扉を開けるときは、心が洗われるような感動を覚えた」という。

 いま危機にさらされているのは、祭礼の形式ではなく、神に奉仕する心を伝えることであり、“神体験”の伝承かも知れない。

 明治の末期、神社合祀の嵐が吹き荒れ、多くの神社が歴史と伝統を喪失した。いま同じことが過疎という時代の波によって起きている。

 かつて民俗学者の南方熊楠は神社合祀に猛反対したが、「平成の南方熊楠」の出現を待つお宮はけっして少なくない。

 さて、お多賀杓子である。

「ゆがみなりにも」と伝えられる杓子の実物をどうしても見たい、と思って、ほうぼう探したが、見つからなかった。多賀大社の授与所にも杓文字型のものしかない。中野幸彦権宮司は「いまはない」とつれなかった。もしやと思って、町の民俗資料館にも足を伸ばし、倉庫にも入れてもらったが、やはり見当たらなかった。

nice!(0)  コメント(2) 
共通テーマ:ニュース
食と農 ブログトップ